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<<   作成日時 : 2013/08/19 16:03   >>

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CMに影響されたわけではないが、以前から行きたいと思っていた東北に出かけてきた。

途中ニュースで知ったが、この夏、東北への旅行者がだいぶ増えたらしい。
CM効果か、いや震災後、あの地を応援したいという気持ちは多くの人が持っていたはず。
そんな、ことが重なって、訪れたブームなのかもしれない。

いいおっさんが生まれて初めて青春18きっぷを使った。

旅、人生の悩み、自分探し、そういうのは10代、遅くとも20代でやっておくべきなのだろうが、私の場合、お恥ずかしながら、いつまでたっても、冷凍保存されたように、そうしたモヤモヤと共に生きてしまっている。

実に情けない。そうやってどこかで自分を苛め続けてきた。
何をやっても結局気分は晴れないし、自分に自信を持つことができない。

今回、ある切っ掛けから、そうした自分と向き合う旅になってしまった。

20代の頃考えていたことはと言えば、小説でも書いて死んでやる、ということだった。
勇気のない自分のこと、死ぬ勇気もおそらくないであろうに。

自分の弱さを身の回りの不幸のせいにしてはならない。
君は五体満足で何の不自由もない。現役で志望の大学に受かり、何の心配もいらない。

まぁ、超エリートではないが、上場企業に就職して、それなりの生活をしていればよかったのかもしれない。
15年くらい勤めた。一身上の都合で辞めた。退職願とは直筆で筆で書くものらしいが、
何と私はひな形の文面をワープロで打ってそのまま提出した。誰も文句を言わずに、私の退職稟議はとおってしまった。めくら判とはこのことだ。

会社と自分の悩みは関係ない。辞めた直接の原因とは、法外なノルマをしょって成果主義の中で立ち回ることができなかったということだ。

収入は辞める直前の3分の1に減った。辞めてから12年も経つ。低収入のことはさておいて、収入があるだけでもいいと思わなければならないのかもしれない。

経済面が解決したとしても、まだ悩みは消えない。

自分には弟がいる。8歳下だ。彼は脳に障害があって、普通の社会人としては生活はできない。難しい会話が理解できるわけではない。禁治産者にして、障害者として福祉予算をもらって暮らしている。両親の介護の下で暮らしている。

8歳下だから、生まれる前から、出産前の病院から、ずっと思い出がある。詳しい話は知らないが、難産だったようで、近所の産婦人科から市立の大きな病院に転院しての出産だった。ヘソの緒が首に巻かれていたか何かで、産声をあげられなかったと聞いた。

弟は本当に悪い子だった。反抗的で、家から脱走した。会話というのが禄に出来ない。なんかおかしいというのは漠然と感じていたが、義務教育がスタートすれば、特殊学級ということになる。その頃は自閉症とかそんな症状で理解されていたと思う。

そんなある時、自分が高校1年くらいだったか、母親が少し精神を病んだ時期があった。まぁヒステリックに夫婦喧嘩というのはよくやっていた両親だったが、あの時はかなり違っていた。妄想のようなものに取りつかれて、何でも父が母自身と弟を殺しに来るというようなことを思っていたらしい。兄である自分に対しては妄想の対象ではないわけで、ただ何となく変な感じで接してくるので、恐怖だった。何かしどろもどろで、オレの世話だけはちゃんと焼いてくれようとしていた。

そういう状況では、自分は父親というのを憎んだ。いつも威張ってやがるが、何かしょうもねー野郎だな。と。その後、父は車の免許をとり、家族でのレジャーなどで家のことをケアするようにはなった。俺は中学以降、家族旅行は恥ずかしくて行けないといって、全部断ってしまったが。

大学に入ってからだったか、その少し前だったか、弟がてんかんの発作で倒れた。正確な時期は記憶が曖昧だが。母親はだいぶ救われたようだった。変な話だが、自閉症というのは心の病気で、母は自分の育て方が悪いのか、何が原因で弟の言葉が出ず、発達に問題があるのか、わからない状況で、ずっと不安を抱えながらの生活であったわけで、ようやく脳に障害があるということがわかった。

弟を出産した病院というのは、まぁちょっと不安のある医者というか、そこの子供も障害があるようなことを聞いたことがある。子供の僕に母親は説明したりするわけがないが、親戚との電話で、前置胎盤(この字でいいのか?)とか帝王切開だとかいう言葉は記憶に残っている。それらの断片情報をつないで見えてくるのは、「医療ミス」なりで脳に障害を持って弟は生まれてしまった、ということなのだった。

私が社会不適格な人間として育ってしまったのは、以上のような環境のせいだけではない。ただし、1点だけ言わせてもらえれば、以上のような経過の中で、悩んでいたということだ。

友人に自分の弟のことなど話せなかったし、できれば兄弟がいるといった話をしてほしくなかったし、家に友だちを呼びたいと思わなかった。家に招けば、弟の奇声のようなものを聞かれることになるわけだ。

そんなことから、私は否応なしに、障害児、自閉症、精神分裂病などといった、精神医学やら心理学の用語に否応なしに関心を持ってしまったわけである。大学の後期になると卒論を書くゼミを選択する。案内をめくっていると<精神医学>のゼミがあったので、それにした。卒論というのは「小児自閉症」というのを選んだ。その原因論として器質的なものと心理的なものを比較するというようなことを選んだ。自閉症の専門医の人に話を聞きにいったし、作業所で障害児のケアプログラムに参加させてもらったこともあった。まぁ日本の大学の低レベルな学士論文で、学問的な価値のない。言ってみれば卒論の体裁の小説だったのだろう。あとがきには自分は幼い弟と一緒の写真が載せてある。

高校生の時は放送番組を作る部活にいたが、コンクールに応募するネタとして、学校の近くの障害児の施設を取材させてもらう番組を作った。すごく協力して一緒に取材してくれる人もいれば、取材はいやだが、テープの編集では全部やってくれる人もいて、地区レベルの予選は通ったか何かの状況だったと思う。

でも、結局、自分は福祉に関心があるわけでも何でもないのだ。ただ一つ関心があったのは、自分の変な弟のことと、母親が心を病んだ時のあの怖い感じ、無関心で無力の父親への反感。そうしたものが自分の中にしこりとなってずっと残っていた。

文科系を選んだのは、社会と現国の先生に惹かれることが多かったからだ。生物、物理、地学、これらの理系科目からは、その意味や意義というのを感じることができなかった。一方文系科目の授業では、例えば、自分の周囲や社会の問題というのの背後にあるものというものを、理解する何かが得られるような気がした。生物の授業なんかひどいもんだった。あれ高校でやる授業じゃない、大学の内容じゃないかと思う。解剖してレポートにまとめよって。年に2くらいならまだしも、ずっとそれだったような気がする。

大学に入ると、最初は明るかったが、やはり人間関係の躓きとかで、すぐに孤独に絶望する生活が始まった。現国の先生は小林秀雄が好きだったようだ。あの一見すると何言っているのかわからない反語的なものの言い方。何か妙にひっかかるような所があった。大学に入ってすぐの時期だったか、小林秀雄が死んだのだった。で、この人の作品をいろいろ読むようになった。読むようになったが、その扱う範囲というのが、実に広いので、美術の展覧会にも随分と出かけていった。文学もドストエフスキーとかフランス文学とか沢山読んだ。

当時の思想状況はソ連の崩壊前だから、左翼論壇というのがまだかろうじて影響を持っていた時代である。そういう中で、小林秀雄読みであった私は、吉本隆明を知ることになる。今、その判断が正しかったかを考えてみるべきだとも思うが、当時は「反核異論」というものに意味があるのではないかと思ってしまった。

思ってしまったと、自重するのは、やはり311の原発の事態があるからだ。この問題も難しい。
素人に判断できるものではないような気がする。

私が知っていることは、吉本氏の著作家としてのスタートは戦争体験の中で、己の転向体験の徹底した反省から来ている。その思考には小林秀雄の有名な「僕は反省などしない」という態度の考察から来ているということだ。
つまり、軍国主義にあっさり転向していった知識人。戦後のとって返したような、戦争協力者として転向者への糾弾。吉本氏はそれらは同根だと見ぬき、国家という<共同幻想>の起源を見極めようとする研究を始めたのである。

とめどなく回想が続いてしまうので、辞めよう。で、文学、小説でも書いて死のうと思っていた自分を躊躇させて、かりそめにも社会に出ようと思ったきっかけは、小林秀雄だったのだ。彼は小説家を志していたのである。で、辞める。それはランボオという詩人が詩作をやめ貿易商か何かに転身してしまうような生き方から来ていると私は理解した。

やはりまだ回想にふけってしまうので、終わろうと思うが、自分としては当時、低劣だと思ったのだ。自分の心の傷を痛い、痛いと言って書くという行為に何の意味があるのだろうかと。

とりあえず生きてみようと思ったあの当時、価値相対化、デコンストラクション、サブカル。吉本のおっさんも死んだ。最後は糸井さんに看取られるような感じか。文壇からはアウトサイダーだったのだから、そういうポジショニングになるのだろうが、やや寂しい気もする。

結局、あの当時に戻ってしまったような気がする。自分の判断は正しかったのだろうか。

先ほど、試しに検索してみた。障害児を持つ兄弟 とかのキーワードだったと思う。
見事にヒットした。読むと、「障害児を持つ兄弟は父母よりもその影響は大きい」とか。

これは全くもってオレのことが書いてある。今の今まで、自分と同じ境遇の人がいるということを考えてみなかった。

小説を書きたいなら書けばいいのかもしれない。本当に書きたいのなら。
何を書くか。それは弟のことだと思う。
彼の人生というのは、一体何の意味があるのだろう。だが、彼にも楽しいことはあるし、好きなこと、好きな食べ物があるのである。オレと父と母の3人しか知らないことだが。
今こうしてクダをまいていられるオレは実はとても幸福な方なのであろう。両親は年老いていて、体にはどこかしらガタがきている。それでもときどき夫婦喧嘩をしながら弟を育てて暮らしている。それがずっと続くのか。将来、俺は弟と暮らすのだろうか。例えば養育係が母からオレに代わるとして、彼は楽しく暮らせるのだろうか。一体彼はどうなるのだろうか。障害児の兄弟介護には虐待の問題もあるのだそうだ。

いや、やっぱり小説などは面倒くさい。

今回、俺は兄として弟に初めて絵葉書を書いてあげた。
父母にメールで旅行していると書けばよかったのだが、パターンを変えたかった。
どうせ両親は読むに決まっているので、実家に送ればいいのだ。
ただ、宛先は弟の名前にしたかったのだ。
あいつには郵便物が来るのだろうか。

CTをとると脳に傷があるそうなのだ。おそらくそれはスムーズでなかった出産時に脳が圧迫されたなどの原因で出来てしまったものなのだ。それも推測に過ぎない。本当にかわいそうでならない。

絵葉書を見れば何が書いてあるかは判断できる。ああいう障害を持った子には特殊な能力があるということも、ATARUのような作品で知られる。自分の弟には地理的な感覚がとても鋭いという能力があって、一度行った場所は確実に覚えて道案内が出来るらしいのだ。私は一緒には暮らしていないので、車で移動する父母がそう言っているのを聞いただけなのだが。

人の人生とは何なのだろう。弟の存在意義とは何なのか。ちょっと昔、そんなことを考えていたとき不意に浮かんだのが、彼は障害児として自治体の福祉予算の何がしかが充てられており、それは行政の金の計算の数字の上下を握っているではないかと。その額はわずかであったとしても、彼もまた充分に社会的存在なのではないかと。

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